湿原植物の分布特性と窒素吸収形態に関する研究
東京農業大学生物産業学部生物生産学科 中村 隆俊



 冷温帯から亜寒帯域に発達する湿原生態系は、ヨシや大型のスゲが優占しミズゴケを欠く高生産性のfenと、ミズゴケが地表面を覆い矮小なスゲ等が優占する低生産性のbogによって大きく区分される(Wheeler & Proctor 2000)。これら2 つの主要な湿原生態系と水文化学環境要因との関係については、古くから欧米を中心に多くの議論がなされてきた。そして、2000年以降、多数の湿原群を対象とした、様々な環境・植生データの同時比較がヨーロッパ(Wheeler & Proctor 2000)や北日本(Nakamura et al.2002a)などで行われ、グローバルな傾向がみいだされつつある。それらの報告では、fenとbogの違いが土壌水pHの変化と最も密接に関連しており、欧・米・アジアに関係なくpH5~6 を境界として、強酸性環境にbog、弱酸性~中性環境にfenが分布する傾向が明らかにされている。しかし、これらの傾向は、環境と植生分布の対応関係を示しているだけに過ぎず、pH環境の違いがどのように両湿原生態系の維持・発達に関与しているのか、その因果関係について検討した研究は、国内においても海外においても認められない。

 一方、湿原に分布する植物の生育特性や生理生態的挙動に関しては、fenとbogで大きく異なることがいくつか明らかにされている。bogに生育する植物群は、fenの植物群よりも明らかに窒素吸収量が少ないため、生産性は低く、吸収した窒素についても無駄なく効率よく利用する傾向にある(Nakamura et al. 2002b)。これらの傾向は、窒素に乏しい環境がbogでの植物生育・分布に対する制限要因となっていることを予想させる。ところが、植物が利用可能な窒素量の指標として用いられる土壌水の溶存態全窒素濃度は、bogとfen間で明瞭な違いがない(Nakamura et al. 2002b)。従って、bogでは、周囲に窒素が存在するにもかかわらず、窒素の吸収が強く制限されている状態であると考えられる。また、fenとbogでpH環境が明瞭に異なることを考慮すると、そのような窒素環境と植物の窒素吸収・利用特性には、pH環境の違いが密接に関わっている可能性がある。

 一般に、酸性環境下では、土壌から溶出したアルミニウム、マンガンや水素イオンにより、根の伸長阻害や成長阻害等がみられる。しかし、湿原生態系は鉱物性物質に極めて乏しい有機質土壌で占められるため、強酸性環境であるbogであっても、アルミニウム等の鉱物性イオンはほとんど検出されない。さらに著者は先行研究として、fenやbogを特徴付ける数種の植物を用いた水耕実験を行ったところ、塩酸による強酸性処理下(pH3.5)でも、成長量や無機態窒素(硝酸アンモニウムとして与えられた)の吸収量は大きく低下せず、水素イオンそのものによる直接的な影響は小さいことを確認している(未発表)。これらの知見は、酸性土壌と植生分布・植物生育にみられる一般的なメカニズムが、湿原生態系ではうまく当てはまらないことを示唆している。そこで本研究では、fenとbogにおける窒素の存在形態の違い(硝酸態、アンモニア態、有機態)と、植物におけるそれら窒素の吸収特性の違いに着目した。植物遺体の分解や硝化を担う微生物の活性は、温度や土壌水分だけでなくpH環境によっても大きく左右される。従って、pH環境が明瞭に異なるfenとbogでは、硝酸態窒素・アンモニア態窒素・有機態窒素の利用しやすさ(アベイラビリティ)や存在比が大きく異なっている可能性がある。湿性環境に分布する種の多くは、硝酸態窒素よりもアンモニア態窒素を好むことが古くから知られているが、湿性植物であっても硝酸態窒素とアンモニア態窒素のどちらでも吸収・生育可能な種も報告されている(Munzarova et al. 2006)。また、近年の研究では、極北地方の針葉樹林帯やツンドラにおいて、有機態窒素であるアミノ酸を積極的に利用する種も確認されている(Bennett & Prescott 2004)。このような窒素吸収形態における選好性の違いは、乏しい窒素資源の奪い合いを回避するための適応であるとみなすこともでき、様々な生態系における種の共存・競争・分布機構に重要な役割を果たしていると考えられている(Harrison et al. 2007)。以上のことから、各窒素形態に対する利用特性が種によって異なるならば、pH環境軸に沿った各窒素のアベイラビリティや存在比の違いに応じて種組成は変化することが予想される。こうした仮説は、上述した両湿原生態系におけるpHや窒素に関するこれまでの知見を矛盾なくカバーすることができる。

 本研究では、北日本のfenおよびbogの植生景観を特徴づけるヤラメスゲとホロムイスゲを用いて、実生苗によるfenとbogへの相互移植実験を行った。それらの実験により、全窒素吸収速度、硝酸態窒素同化速度、アンモニア態窒素同化速度、有機態窒素への吸収依存特性をそれぞれ明らかにし、各移植地における土壌水の窒素・pH環境との関係について解析を行った。これらの結果をもとに、窒素吸収特性の違いからみたfenとbogの成立・維持機構について、生態生理学的解釈を試みた。

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