別寒辺牛川水系におけるイトウの生息域に関する研究
北海道大学大学院環境科学院生物圏科学専攻 野田 裕二



 イトウ(Hucho perryi)はサケ科イトウ属の魚で,ロシア沿海州,サハリン,千島列島,北海道に分布が確認されている。イトウ属はユーラシア大陸に広く分布し,本種以外ではドナウ川にHucho hucho,シベリアにHucho taimen,鴨緑江上流にHucho ishikawai,揚子江上流にHucho bleekeriが分布している(木村1966)。

 本種は,イトウ属の中で唯一降海性を有し,成長すると全長1.5m以上に達する日本最大級の淡水魚である(グリツェンコほか1974)。15年以上生きる個体も確認されており,産卵は一生の内に複数回(成熟後2〜3年に1度),雪解け後の3月中旬から5月下旬に河川上流の浅瀬で行われる(グリツェンコほか1974, Fukushima 1994, 2001, Edo et al. 2000)。孵化後,浮上した仔魚は,河川を降下しながら浅瀬に定着し,流下昆虫などを食べて成長する(井田・奥山2000, 江戸2002)。そして,全長が15cmを超える頃から魚食性を増し,主に小魚を食べるようになる(グリツェンコほか1974, 佐川ほか2003)。成熟には長い年月を要し(雄:4〜6年,雌:6〜7年),成長すると共に分布域を河川の中流から下流,さらには海洋の沿岸域まで拡大する(木村1966, 川村ほか1983, 佐川ほか 2002, Edo et al. 2005)。

 イトウはかつて青森県と岩手県の一部の水域にも生息が確認されていたが,現在では,北海道南部(以下,道南)の一部と日高地方を除く,道内河川および湖沼に分布している。さらに,イトウの安定した個体群は北海道北部(以下,道北)猿払川周辺,天塩川中流,朱鞠内人工湖,金山人工湖,別寒辺牛川周辺域及び道北人工湖等,6水系の河川・湖沼に限られている(江戸2002, 北海道立水産孵化場2006)。

 本種の減少を受け,イトウは1991 年に環境庁(現:環境省)の「動物版レッドデータブック」で「危急種(V)」に指定された。その後「絶滅危惧種IB類(EN)」への指定,北海道におけるレッドリスト及びレッドデータブックへの記載を経て,現在では国際自然保護連合(IUCN)による「2006 年版レッドリスト」において最も野生種の絶滅の危険が高い「絶滅危惧種IA類(CR)」に指定されている(環境庁1991, 1999, 北海道2000, 2001, IUCN 2006)。

 本種は母川回帰性が強いことが知られており,一度ある支流で繁殖する個体群が絶滅すると,その支流での再生産の回復は極めて難しい(川村2001, 江戸2002)。そのため,近年の河川改修など,人為的影響による生息環境の悪化が,本種の個体数の減少に大きな影響を与えると考えられている(江戸2002, 佐川ほか2002, 森・野本2005, 野本2006)。以上のことから,本種の保全計画策定は急務であると考えられるが,そのためには本種の生活史,環境変化による分布域の変動に関する知見が必要であると考えられる。

 生息環境については,生息河川が泥炭地帯を流れ,茶褐色の濁水による影響で透明度が低い。そのため,孵化浮上後の稚仔魚及び産卵に伴う親魚のような,上流部の浅瀬で観察が可能な場所以外では,行動を目視で観察することは困難である。このような理由により,過去の知見においては初期及び繁殖期の生活史に関する研究が多く,その他の期間においては,沿岸域で捕獲されたイトウや,夏季の生息場所利用の断片的な知見が得られているに過ぎない(木村1966, 川村ほか1983, Fukushima 1994, Edo et al. 2000, 2005, 江戸 2002, 佐川ほか2002, 2003, Arai et al. 2004)。とりわけ,本種成魚の行動生態に関する知見はほぼないに等しいのが現状であり,本種の効果的な保全計画を策定するには,生息環境の変化によるイトウへの影響を解明することが必要であると考えられる。

 近年,目視以外の観察方法として,対象に直接計測器を取り付け,情報を得るバイオテレメトリー手法がある。電波発信器を用いて発信源を特定することにより追跡が可能な電波テレメトリー手法,超音波発信器を用いて水中生物の位置情報を取得する超音波テレメトリー手法,温度・深度・加速度・磁気・照度等のセンサーを搭載し,取得データを記録していくデータロガーを用いた手法などが確立されつつある。また,これらバイオテレメトリー手法を用いることで,目視では解明することが不可能な行動生態が解明されている(Solomon and Storeton 1983, Peake et al. 1997, Tanaka et al. 2001)。超音波テレメトリー手法においては,位置情報だけでなく,水中生物に深度,温度等のセンサーを搭載した発信器を装着し,個体毎の水深,水温等の計測が可能となった。また,近年のマイクロエレクトロニクス技術の発展に伴い,機器の小型化・大容量メモリの搭載・電池寿命の長期化により,対象となる生物の負担を軽減するだけでなく,長期に亘り詳細な情報を得ることが可能となった。

 イトウの安定した個体群の中でも,別寒辺牛川水系は,上流に一般人が容易に立ち入ることが出来ない自衛隊の演習林があり,中流から下流にかけてラムサール条約に指定された別寒辺牛湿原(1993年6月10日登録5,277ha)を持つ。本水系は,人為的な河川改修が行われている区間が,道路と交差する箇所・自衛隊演習場の境界線に位置するダム・牧草地となった一部の流域であるため,多くの自然が残されている。そのため本研究では,別寒辺牛川水系におけるイトウの産卵後の降下行動・季節的な回遊行動,さらには,移動と周囲環境の相互関係を解明することを目的とし,追跡と環境データの取得には,河川の定点での通過情報の取得が可能な超音波テレメトリー手法と,河川水温を継続して記録できる温度センサーを搭載したデータロガーを用いた。

戻る